岸部の歴史

岸部という地名はもともと「吉志部」でした。

1889年(明治22年)の町村制施行で簡略化されました。

しかし、JRの駅名は「岸辺」です。

これは当時の日本国有鉄道(国鉄)が駅名に簡便で間違いにくい表記を採用したためだと言われています。

確かに「岸部」は「きしぶ」と呼んでしまいますね。

 
●吉志部神社【吉志部神社本殿 国指定重要文化財】
吉志部神社の創建時期は明らかではありません。

社伝によりますと、崇神天皇の時代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ、「大神宮」と称したとあります。
しかし、淳和天皇の時代である天長元(824)年に、天照御神と改称したこともあるようです。

正式に吉志部神社となったのは、明治3(1870)年、神仏分離の発令を機に改められてからとなります。

江戸時代には、祭神は天照皇大神を主神とした七柱で七社明神と呼ばれ、吉志部5カ村の産土神として祀られていました。

馬場と呼ぶ神社参道は、亀岡街道から始まり、松並木の中を一直線に約300m北上して境内に達し、神門・拝殿・本殿へと導き、昔ながらの吉志部神社の景観をよく伝えています。

また、この参道は島下郡条里の方位に一致するといわれており、条里と関連があると考えられます。

現在の本殿は慶長15(1610)年の吉志氏再建とあり、檜皮葺七間社流造です。

屋根には千鳥破風と軒唐破風を付け、外部の柱などの材には華麗な彩色が残っています。

この七間社流造の本殿は、大阪府下で唯一のもので、類例が少ない七間社を装飾性豊かにまとめている神社本殿として高い評価があり、重要文化財に指定されています。

大正期に拝殿・幣殿などが、天保4(1833)年に建てられた本殿覆屋に建て継がれて一体化し、現在の覆屋と拝殿の姿になりました。

本殿前に燈籠が床に囲まれるように建っている(元禄10(1697)年の年号が彫ってある)のは、元々本殿と拝殿は独立して建ち、その間に燈籠が据えられていた名残です。

その拝殿は、中央一間を通路とする「割り拝殿」と呼ばれる形式のものであったと考えられ、現在の神門が拝殿から転用されたと推測されます。

また、吉志部神社で行われる秋祭りで注目されるものに、「どんじ祭」があります。
この祭りは岸部の小路・東・南の3地区から供え物(しら蒸し、小判餅、お菓子)がなされていて、祭りを行う当番の家ではしめ縄が張られ、幟が立てられ、供え物が調えられます。

小路では特に4人の稚児(女児)がしめ縄の帯を締め、尾のついた草履をはき、サンドラという輪を頭に乗せるといういでたちで、行列に加わり、供え物を神前に奉納します。
これらは、宮座の古式を残すものと考えられ、吹田の神社祭礼の特質を考えるうえで重要な祭りです。

境内には露店が並び、賑わいます。(10月17日の午後~夜のみ)

小正月の1月15日には、「とんど」と呼ばれて親しまれている古神札焼納祭が行われます。

こちらは旧年の御札やお守、また角松、しめ縄など正月飾りを集めてやぐらを組み、そこに大神様から受けた御神燈で、点火してお焚きあげします。

とんどの火にあたると1年間健康に過ごせると言われています。

所在地:大阪府吹田市岸部北4-18-1